「さて…と。」
レラは軽く息をついて、愛用のペンを置きました。
赤い栞を挟んで、分厚いノートを閉じます。
だいぶすり切れた表紙を愛おしげに撫でると、我知らず、顔が和みました。
「オーウェン様。お茶をいれますけれど、お飲みになりますか」
「…うん?ああ…、…。」
膨大な資料の山の向こうから、聞いているのかいないのか…
明らかな生返事が返ってきます。
(やれやれ。)
レラは、今度は聞こえよがしにため息をつきました。
『熱中するのは良いことだ。しかし、熱中しすぎるのは危険なことだ。』
(…いつも人に言っているのは、どこの誰だったかしら?)
山の向こうからは、忙しげにページをめくる音、
そして神経質にペンを走らせる音が響いています。

+Daily Must+
〜日常必需品〜

レラが白竜との出会いを果たしてから、一年が過ぎようとしています。
この世で最も大きく、優しく、強い生物。人々の暮らしを守り、
幸せに導くという、伝説の白き竜。
その威容を前にしたとき、レラの体は感動に震えました。
今でも思い出すだけで胸が熱くなります。
一目で確信したのです。自分が彼を追いかけ、
追い求めてきたことは間違っていなかったと。
彼の瞳に、どこまでも深い色を見たあの時。
あれから、一年。
今でもレラは、白竜についての研究を続けています。
あの頃よりは静かな心、けれど同じ…いいえ、あの頃以上に熱い熱意を持って。
…逆に、今大騒ぎなのが、所長であるオーウェンでした。
「ふむ、これでも計算が合わないか…!」
レラがお湯を沸かしている間にも、唸り声が聞こえてきます。
多分、今ごろ、あの見事な白髪頭はボサボサに乱されていることでしょう。
(こちらは手が空いているんだし、手伝ってもいいのだけど)
仮にも『助手』であるレラですが、今回依頼された研究については、
『手出し無用』の指示を出されているのです。
いつでも人手不足の研究所だというのに、だからオーウェンは、
本当に寝食忘れる勢いで机にかじりつき、一人格闘しているのです。
ポットとカップにお湯を注ぎつつ、レラは軽く首を傾げました。
(何をムキになっているのかしらね)
完全に机を囲んでしまっている資料の向こうから、ガリリとペン先が割れて
引っかかる音が聞こえました。…それに、インクが飛んで驚いている声も。
ふきんを水に浸し、レラは少し呆れて声をかけました。
「オーウェン様。お茶が入りましたから、上着を脱いでおいで下さい」

「やれやれ、参った」
自慢のヒゲに黒の水玉模様を作ったオーウェンは、
情けなさそうな顔でカップに口を付けました。
「ペン先が割れるほどの筆圧をお持ちでしたか?」
ふきんで上着の染みになった部分を叩きながら、
レラは軽く皮肉を言ってやりました。
オーウェンは苦笑いします。
「まあ、それほど弱くもないつもりだが。…少々酷使が過ぎたようだな。」
壊れたのは、意外に新しい物好きのオーウェンが、
発売と同時に買ってきた、最新式の万年筆。
握り心地が最高だとかなんとか言って、ここのところ愛用していた品でした。
「また新しいのを買うかな」
「ペン先を修理すれば使えます。」
きっぱりと言い切ると、レラは上着をひとまず置いて、お茶を一口喉に流し込みました。
「まあ、ご自分で買いに行かれる分には止めませんが。」
付け足すと、オーウェンは急に笑いだしました。
「何です?」
「いいや、なんでもない」
オーウェンはクスクス笑いをこらえています。
「オーウェン様。」
カチャンッ。
威嚇するように音を立ててカップを置くと、オーウェンは笑いながら軽く手を振りました。
「たいしたことではないのだよ。…ただ、変わらないものだと思ってな」
「は?」
レラは思わず首を傾げました。
変わらない。…多分、自分のことを言っているのでしょうが。
オーウェンはまだ笑っています。
「私は、レラ。君が随分成長したものだと思っていたのだよ。特にここ一年ほどは…」
水玉模様のヒゲを撫で、オーウェンは懐かしげに目を細めました。
「白竜に会って帰ってきてからだな。君はもう、
 私の下などで働く人材ではなくなったと思っていた。」
それから、また一口カップに口を付けて、続けました。
「だから、私も少し頑張ってみようかと思ったのだが…」
「…過去形ですか?」
本当はこんなことを言いたいのではありませんが、口をついて出たのは、こんな言葉でした。
オーウェンは気にもせず、さらりと笑って答えました。
「過去形だとも。…確かに学問に置いては、もう教えることもほぼないと、
 今も思っているがね。しかし、今の言い回しを聞いて、考えが変わった」
(今の…?)
オーウェンが笑い出した直前。
ペンの話。
「まだ私にも、教えられることがあったというわけだ。」
カップの中身をぐいと飲み干し、久しぶりにオーウェンは、愉快げな笑顔を見せました。
「それに、たまに気が向いたらお茶をいれてくれる助手がいないと、
 私はいつか干からびてしまうかも知れん」
取って付けたフォローになっていないフォローに、レラは額を抑えました。
全く。
あまり外部の人には見せませんが、これでなかなか食えないオヤジです。
「さて、それでは気分転換がてら、新しいペンを調達しに行くとするかな」
すっかりご機嫌になったオーウェンは、いそいそと席を立ちました。
その様子にレラは軽くため息をつき、自分も立ち上がりました。
「気分転換は結構ですが」
一応の着替えを詰めてある棚を開け、オーウェンの予備の上着を取り出します。
「先生の留守中、不肖の助手は何をしていればよろしいですか?」
ぽんとその手に上着を渡し、素っ気なく尋ねてみます。
「…そうだな。」
オーウェンは、にやりと笑って答えました。
「上着の染みが抜けたら、私の机にある計算式を確かめておいてくれたまえ。」

オーウェンの新しいペンは、カップとポットが食器棚にしまわれ、
上着の染みがすっかり抜け、計算も完璧に整った頃、随分遠くの店で買われたようです。

+おしまい。+