季節の始まり、4月の初めの日。

 コロナの街では、春の象徴ともいえる桜が、美しく花開いています.

 その木の下で、桜と同じ色の髪をした少女が、

 じぃっと舞い散る桜の花びらを眺めていました。

「……きれい…………」

 小さく呟いて、少女はなおも桜に見入っています。

 思わず、なんとか手が届きそうなところにある桜の枝に手を伸ばして……

「ミュルク?」

「うわわわ、わっ?!」

 突然後ろから名を呼ばれ、少女……ミュルクは、

 おおげさに驚いて、慌てて桜の枝から手をひっこめました。

「お、おはよっ、ラケル! あ、あのね、別に枝をとろうとしてたわけじゃないのよ、うん!」

 なんだか恥ずかしい場面を見られてしまったような気がして、

 ミュルクは照れ笑いを浮かべながら言い訳します。

 なんとなく、ラケルは機嫌が悪そうですが……

「と、ところで、珍しいね、ラケルが街まで来るなんて……」

「珍しいって……ミュルクが呼んだんだよ? 話があるって」

「え……?」

 やっぱり機嫌が悪そうなラケルに指摘され、しばしミュルクは考え込みます。

 と、ぽんっと軽く手を叩きました。

「そうだったね! ごめんね、わざわざ」

「……いいけど」

 彼女の忘れっぽさと、しっかりしてそうなわりに少しズレたペースには

 もう慣れているはずなのですが、やっぱりラケルは妙に不機嫌そうです。

 それもそのはず。

 ミュルクには、竜の呪いがかかっていました。

 その呪いで、彼女はずっとかえるの姿にされていたのです。

 それを解くためにコロナの街に来たのですが、

 その途中冒険に失敗してしまい、呪いは解けないかと思われたのです。

 ですが、昨日。

 彼女を人の姿に変えてくれた賢者ラドゥが、新しく魔法をかけなおしてくれて、

 彼女はかえるに戻らずにすんだのです。

 その際。

 ミュルクが心配で彼女の元へ訪れたラケルは、ずっと言わずに

……いえ、言えずにいた想いを告白した・・…のですが。

 その言葉が終わるより前に、呪いが発動しなくなったのに安心したのか、

 突然彼女が泣き出してしまい。

 それをなだめるのに必至で、それ以上にもう一度言い直すのも恥ずかしくて。

 ろくに答えも聞けないまま、現在に至っているのでした。

「……今日はもう落ち着いたの?」

「うん。……昨日はごめんね」

 泣いてしまったことに謝っているのか、返事をしなかったことに謝っているのか。

 どちらにしても、微妙なところです。

「あのね。……話とは、関係ないんだけど……」

 切り出して、ミュルクは頭上のピンク色の花を指差しました。

「この花、なんていうの?」

「え?」

 妙な質問に、意図せずラケルは目を真ん丸くしました。

(……そっか、記憶が……)

 呪いが発動しないといっても、彼女の記憶は失われたままです。

 誰もが知ってて当然のことでも、ミュルクにはわからないことだらけなのです。

「桜、だよ」

「さくら?」

「そう。……去年の今ごろだって、咲いてたんじゃないの?」

 去年の今日。

 それは、ミュルクが初めてこの町に来た日です。

「うん、咲いてた。でも、あの時は一緒にさくらを見て、

 教えてくれるような人、いなかったから」

「…………」

 アルターなら教えてくれたかも、と一瞬思いましたが、すぐにその考えは闇に葬られました。

 それでもしミュルクとアルターが仲良くなっていたりしたなら、

夏の初めに彼女と出会ったラケルとしては、たまったものではありません。

「……結局記憶、戻らなかったね」

 いつのまにか、後ろを……桜を見上げているミュルクが、ポツリとつぶやきました。

「ごめんね。記憶……戻ってたら、こんなにいろいろ聞いてばっかりじゃなかったのに……」

 口調はいつもどおり明るい、のですが。

(やっぱり、気にしてるのかな)

 ズキ、とラケルの胸が痛みます。

 失敗したのは、ラケルが一緒に行けなかった時の冒険です。

 だからこそ、『自分は何もできなかった』という、やりきれない気持ちでいっぱいになるのです。

「ミュルク……」

「ほえ?」

 ラケルに呼びかけられ、振り向いた彼女は。

 『どうしてそんな落ち込んでるの?』とでも言いたげな、キョトンとした顔でした。

 傍目にも、記憶がないことを悲しんでいる風には見えません。

「どうしたの?」

「どうしたの、って……」

 予想を見事に外し、ラケルは反応に困ってしまいます。

 しばらく、ミュルクの顔には疑問符が浮かんでいましたが、

少ししてようやくラケルが何を考えていたか、理解したようでした。

「あ、あのね、違うの。記憶戻らなかったのは、別にそんなに気にしてないの。

ただ、あんまり色々聞いてるから悪いな、って……」

「……別にそんなの、かまわないよ。それより、気にせずにいられるものなの?」

 一年間もがんばったのに。

 失った空白の部分が、気にならないはずはないのに。

「ん〜……」

 しばらく、ミュルクは考え込みます。

「……昨日までは、ちょっとは気にしてたよ。でもなんか、

 今日になったら戻らなくてもいいかな、って思うようになったの」

「……どうして?」

「だって、わからないことはこれから覚えていけばいいし……

なくした分は、これからそれ以上に、いっぱい綺麗で大切な思い出を作っていけばいいでしょう?」

 おそらく、昨日一晩ずっと考えた末の結論なのでしょう。

 そういって微笑む彼女の瞳には、ひとかけらの迷いもありませんでした。

「……一年間、いっぱい後ろを見たもの。これからは、ちゃんと前を見て歩かなきゃ」

「そっか……」

 いつもどおりの……いえ、いつも以上に明るい彼女の笑顔を見て、

 ラケルも思わず顔をほころばせます。

 ここ数ヶ月……冒険を失敗して以降、

 やはりほんの少し、ミュルクは元気がなかったから。

 何よりも、こうやって再び掛け値ナシの笑顔を見せてくれるようになったことが、

 何より嬉しかったからです。

「……そ、それでね。これを言いたくて、今日、来てもらったんだけど……」

 と、急に頬をほのかに赤く染め、少しだけうつむいてしまいました。

「? なに?」

「あ、あのね……」

 言い出しはしましたが、そこでまたしばらく、沈黙が流れます。

 たっぷり20秒は経ってから、ミュルクは顔を上げました。

「だから……ね。ラケルも、わたしと一緒に前を見てほしいな

 ……って。昨日、言えなかったから……」

「え……」

 今度は、ラケルが考え込む番でした。

 ミュルクが言えなかったこと。

 昨日、彼女が言わなかったこと……

(……っ!!)

 本当はわかっていたはずなのに、なぜか理解するのにかなりの時間がかかってしまいました。

「え、え……っと……」

 自分が言いたい事は、昨日もう言ってしまったはず。

 それでも、改めて彼女から切り出されると、やけに恥ずかしく感じてしまいます。

「……僕で、いいの?」

 やっとの事で聞き返したのですが。

 なぜか、今度はミュルクの方がむっとした表情になってしまいました。

「もう……ラケル、分かってないっ!」

 少し怒ったような口調で言います。

「ラケル『でいい』んじゃなくって、ラケル『がいい』のっ!」

 その言葉の意味。

 たった一文字ですが、大きく違う意味です。

「ね?」

 と、再びミュルクは笑顔に戻ると、すっとラケルに手をさしのべました。

「……うんっ!」

 今まで誰にも……両親にすら見せた事の無い極上の笑顔で、ラケルもその手を取りました。



 こうして、一つの絵本は終わりを迎え。

 新たな絵本が、描かれていく事になります……



『Rabbit ear iris』

   杜若(かきつばた)。

   浅い水中に生息する花で、濃紫、青紫色の花びらに、筋の入った模様をもつ。

   花言葉は……『幸福は、きっとあなたのもの』。